【掌中の珠 最終章 7】   



花は時々目を覚ますものの、眠り続けた。
その間に川の増水は解消し、孟徳と玄徳は国境付近で3度会合を持った。
凍てつくような寒さが少しゆるんだころ、玄徳や芙蓉などの軍の上層部のメンバーは近くの豪農の離れに居を移した。表向きは軍上層部の生活環境の改善を目的としていたが、実際はそれに紛れて花を移動させるためだった。
眠り、消化のいいものを食べ、また眠り…を繰り返していくうちに、移動について医者の許可がでた。水が自由にならず寒さがこたえる陣よりあたたかな仮宿で花の回復をはかるべきだという医者の意見に、玄徳をはじめ皆が同意した。
それに陣だと食事やトイレなどの際に花の存在を隠すのが難しい。こちらの様子を探っている孟徳の手の者の存在を、玄徳たちはあちこちに感じていた。
「花の様子はどうだ」
豪農の母屋で賓客として泊まっている玄徳は、1日に何度も離れにきて芙蓉に花の様子を聞くのが日課となっている。
「昼を食べて今眠っています。玄徳様、あんまりこちらにくると怪しまれてしまいますよ」
めっと言う感じで孟徳をにらむ芙蓉に、玄徳は苦笑いですまんすまんと謝った。そして周りを見渡すと芙蓉を離れの裏、人目につかないところへ連れていく。
「それで、その……花はどうだ。思い出したのか?」
芙蓉は首を横に振った。
花が川に落ちてから2週間程だろうか。ほとんど寝てばかりだが合間合間で意識が戻り、わずかな時間だが言葉を交わしてきた。しかし花は怪我をなぜしたのか、怪我をする前なにをしていたのかおぼえていないようなのだ。
『えっと…私、玄徳さんたちと一緒に居て、雲長さんと会って……』
長坂の戦いの前の話をしだす。しかもそこも記憶が混乱しているようで、思い出させようと芙蓉が質問すると頭が痛むらしい。
「でも、それでいいんじゃないかって。あんな鎖でつながれてた魏のこととかきれいさっぱり忘れちゃえば花も幸せなんじゃないかと思うんです」
「……」
玄徳は腕組みをして返事をしなかった。芙蓉も忘れればいいとは言いつつ確信は持てないようで、玄徳と視線はあわせない。
あんなに幸せそうに、孟徳のことを玄徳に紹介してくれた花の笑顔。そこからしばらくは幸せそうな文を何度ももらっていた。
「……何があったかはわからないが…」
あの笑顔を忘れてしまうのは花ににとって幸せなのかどうか、玄徳にはわからなかった。
そして孟徳。
あれから三度あったが孟徳のトレードマークともいえる笑顔はなかった。眼の奥がすわっていて雰囲気がピリピリしている。
どんなピンチであろうと、どれだけ緊迫していようと、孟徳は決してそれを表に……特に玄徳に見せることはなかった。一番の敵とみなしている玄徳にはいつも余裕のある自分を演出し見せていたのに。
「孟徳殿に伝えるべきか悩んでいてな」
孟徳の様子を探らせている者からの報告では、孟徳はまだ川で何かを探しているらしい。牧の館は整備が進み後釜には都にいる親族が入る予定だから、もう後は任せて孟徳は都に去っていいのはあきらかなのに。
「反対です」
芙蓉は即座に言った。「花だってまだ本調子じゃないし記憶もあいまいだし、それにまたあんな目にあわないって言えますか!?」
花の足首に絡まっていた鎖を思い出しながら芙蓉が語気を強めてそういったとき、後ろからか細い声がした。
「私のこと?何が反対なの?」
玄徳と芙蓉がふりむくと、壁によりかかるようにして花が立っていた。
「花!立って歩くなんてだめよ!」
芙蓉があわててかけよる。花は医者から絶対安静をいいわたされているのだ。食事も寝台にねたままさじで口にいれてもらい、お手洗いも…
「もうだいぶよくなったよ。お手洗いには自分で行きたくて」
そういって歩き出そうとして花はふらりと体勢を崩した。「花!」芙蓉が支えようとして逆にバランスをくずし、二人を玄徳が抱きかかえようとする。慌てていたので結局三人とも、玄徳を一番下にして尻もちをついてしまった。
「もう!ほら、やっぱりまだはやかったのよ!玄徳様もうしわけありません」
「いやいや、すごい回復ぶりだ。よかったな、花」
玄徳が楽しそうに笑う。花も一瞬笑いかけたが、その瞬間腹部に鋭い痛みが走り小さくうめいた。脚の間からドロリとした液体が流れたのを感じる。
「あ……」
こわごわと自分の足元を見ると、はだしの脚に血が伝っている。腹痛はひどくなり、ドロリとした感触は続く。
「私……」
花の体に隠れて足元が見えてなかった芙蓉は「花?どうしたの?」と花の顔ををのぞき込み、小さく悲鳴をあげた。
「玄徳様!」
玄徳が見たのは血だまりだった。離れの裏、土間の土の上に黒いしみがじわじわとひろがっていく。「花!」
花は茫然としたまま血まみれの自分の足と土間の血を見ている。
急いで立ち上がり後ろから花を抱える。「芙蓉!医者だ、医者を呼べ!」

あれ…おかしいな。玄徳さんの声がすごく遠くに聞こえる。私を抱きかかえてくれてるのに…
耳鳴りが大きすぎて芙蓉ちゃんの声が聞こえないよ。
誰かの悲鳴が聞こえる……お腹痛い。頭も痛い。胸も、心も……

ああ……
花は、自分の頬に温かいものが伝うの感じた。
思い出した。そうだ、私、悲しくて悲しくて……

たくさんの人がバタバタとあわただしく動き、芙蓉が半泣きの声で怒ったように花を呼んでいるのが聞こえる。

花の瞼の裏いっぱいに孟徳の笑顔が広がった。
あの時……冷たい水が迫ってきたとき、孟徳さんに助けてほしいのかどうかももうわからなくなって。
でも私がいなくなったら、孟徳さんはまた逃げたって思っちゃうんじゃないかって。私、孟徳さんのそばにいるって言ったのに。孟徳さんの信頼する人はやっぱり誰もいないって孟徳さんが思っちゃんじゃないかって。でも助けてほしいとは思えなくて。
だから、私、忘れたいって思ったんだっけ……




孟徳は読み終わった竹簡を脇の暖炉にくべた。
一瞬弱まった火が次の瞬間勢い良く燃え上がる。孟徳はずきずきと痛む額を指でなでながらそれを見ていた。
「文若はなんと?」
反対側の椅子にかけていた元譲が聞く。
「帰ってこいだってさ。また例のやつらが俺のいない都で悪だくみをしてるらしい。東の方でも小さいが野盗上がりの反乱がおこっているようだし」
「お前が許にいないと抑えが効かないんだろう」
「まあね。ようやく安定しだしたところだから既得権益を奪ったやつらは今蜂起しないとと思い込んでるんだろうな」
三国停戦が成ってから様々な律令の変更をしてきた。
身分や血筋ではなく有能なもので政を行えるように、伝統ではなく効率を。
変わるのが嫌な奴らや血筋しか誇れるものがない奴らにとっては死活問題だ。ここで孟徳を倒せばまた血を血で洗う泥沼の政争になり、そこにつけこんで他国からも攻められ、結局は自分たちの損になるのは孟徳には明確に見えるのだが、それが見えないものがほとんどなのだ。目先の自分たちの利益、メンツしか考えていない愚か者。
帰らなくてはいけないことはわかっているが……
「遷都しようかな。ここに」
明るく思いついた孟徳に、元譲はぎょっとした。「なっ何を馬鹿なことを!」
「ここは許よりはあったかいし、周りは険しい山で天然の要塞だし、蜀にも目を光らせられるし。食べ物もおいししのんびりしてるし、結構いいんじゃない?」
元譲はぱくぱくと口を開け閉めし、「話にならん!」と言い捨てて部屋を出て行ってしまった。孟徳は笑いながら元譲の背中に手を振る。
そして半分燃えていまはぶすぶすとくすぶっている暖炉の中の竹簡を見た。
文若からの知らせはほかにもあった。
例の木の実やキノコを城におろしていた幼い兄弟。花と一緒に文字の勉強をしていて孟徳の毒殺に巻き込まれたあの二人が、文若の手によってひっそりと逃がされたことを報告してきていた。
牢に火をつけ、混乱に乗じて兄弟を連れ出し、夜の闇の中を馬車を走らせはるか遠くの別の都市の関係者に、素性を言わずに面倒を見るよう預けたと。対外的には焼死として後始末をし問題なく終わったとのことだった。

これを花ちゃんに言って、仲直りしようと思ってたんだけどな。

孟徳はわき机に置いてある苦い薬湯を一口飲んだ。頭痛にいいと薬師が作ってくるものだ。
ここの牧の娘であり人質であり、孟徳毒殺事件の首謀者である女教師はさすがにすくうことはできなかったが、巻き込まれただけの兄弟はなんとか救えた。

花ちゃんがまた会うことはもうできないだろうけど、どこかで兄弟仲良くくらしてるはずだよって。

でもそれを伝える機会は、もうないのだ。もしかしたら永遠に。
彼女は冷たい水の中に、ようやくできた友人を非情な孟徳に殺された悲しみと一緒にいなくなってしまった。
孟徳は今も多くのの人員を割いて川をかなりの距離まで探させている。遺体を見つけたいのか、見つけたくないのか。孟徳にはもうわからなかった。
分かっているのは、遺体を見ない限り花をあきらめることはできないという事だ。
この土地のどこかに花が眠っているのに、許に帰ることはできない。そうしてしまったら花を本当に失いそうで、孟徳は怖かった。

もうすでに失っているのに。

孟徳の口が皮肉にゆがむ。
もう無理だろう。
彼女は川の中で死んだんだ。
そう自分に言い聞かせながらも、いやでももしかしたらと思いきれずにいる。帰るべきだとはわかっているのだが。

「孟徳、邪魔するぞ」
元譲の声に孟徳は顔をあげた。「何だ元譲。戻ってきたのか」
「ああ。玄徳たちを探らせている奴から報告を受けていたんだが、お前が興味を持つんじゃないかと思ってな」
元譲の頬は緊張で強張っている。孟徳は元譲の後ろにいた農民の服を着た密偵を見た。「早く言え」元譲に小突かれて、密偵は膝をついた。
「申し上げます。玄徳の仮の住まいに入り込んで下働きをしているものからの報告ですが、離れに病人がいることをつかみました」
何だ病人か、と孟徳は元譲を見た。この寒さでこの期間陣をはっているのだ、そりゃあ病人くらいでるだろう。
元譲はそんな孟徳を手で制した。そして密偵に「早く続きを言え」と促す。
「は!その病人は若い女性で例の嵐の夜に川から助けられたそうです」
孟徳の目が見ひらく。
「その女性の足首は鎖がつながっていたと」

孟徳の顔色が変わる。
「元譲、行くぞ」そのまま立ち上がると大股で出口へ向かう。「案内しろ」密偵にそういうと、孟徳は戸外へ足早に出て行った。









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